ログイン胸に突き刺さった針のような鋭い痛みに目を見開き、一瞬で意識を我が身へと収束したマテアは、無意識に祈りの言葉を紡ぎかけていた唇を諌めるように噛んだ。
彼が禁忌とした方法を行おうとしている自分は、その無償の愛を受けとる資格すら持ちえないのだ、と。 涙がこぼれおちそうだった。ぐい、と袖で熱くなった頬をこすったけれど、涙はかろうじてこぼれていない。まばたきもせず台を降り、レイリーアスの鏡に正面立った。巨大な鏡である。鏡面よりも周りを囲った額縁の方が面積をとっていたが、それでも上の、鏡面と額縁の境は見上げるほどに高い。
誕生して三百年。ほぼ毎日この広間で祈りをささげてきた。当番も数えきれないほどこなしてきたが、触れたことはおろか、一度もここまで近付いたことはない。台より先に進むことを禁じられているということもあるが、おそれおおくて、触れたいなど考えたこともなかった。サナンばかりは違ったようだが、おそらく他の聖女も同じ考えでいるはずだ。 なぜなら、この鏡を用いて月光神は界渡りをしているのだから。『月光神の恩恵を受けているのはなにも月光界だけじゃないのよ、マテア』
自分の影で暗く陰った鏡面を見ているうちに、サナンの言葉が蘇った。
『あなたも知ってるでしょう? 月光神に創造されたこの月光界があるのと同じように、太陽神に創造され太陽神を崇める世界や風神を崇める世界、大地母神を崇める世界だってあるの。その世界すべてに界渡りをして、月光神は月光を投げかけているわ。もちろん、わたしたちの世界の風や大地と同じように、この月光界ほどに御力が行き渡っているわけではないけれど、でも、中にはその月光がこの月光界に降りそそぐものよりはるかに強い力を持っているのもあるのよ』
本当だろうか。
サナンの言ったことは、本当にそうなのか。マテアにはわからない。月光聖女で界渡りをした者はいないから。
サナンは、この事を以前衛士だった男から聞き出したと言った。 鏡をくぐるのは本来禁忌とされる行為だが、例外もあって、『月誕祭』の日、月光神の衛士として選ばれた数人の男たちが、次の『月誕祭』までの百年間、月光神とともに界渡りをする。け隊が今夜の宿営地と定めた場所へ移動するまでの間、レンジュは馬に跨り、隊の最後尾で数人の仲間とともに任にあたっていた。 市の周辺では規約に縛られた敵軍よりも、地を熟知した盗賊団の襲撃こそ危険で警戒しなくてはならない。 盗賊たちのほとんどは、敗戦して壊滅した隊の生存者や脱走兵で構成されている。国との関係が切れて物資補給が得られず、何もかも自力で手に入れなくてはならない彼らにとって、最も手っ取り早い方法が他者から奪うことだ。 彼らにとって必要なのは金でなく、食料や服、道具といった物品、そして女だ。市という餌場でたらふく食らい、身重の雌鹿ほど腹のふくれた隊などいいカモというわけだ。 特にこのアーシェンカ近辺では、数年前から神出鬼没の盗賊団が噂になっている。 イルク――月神の娘に愛された、伝説上の男の名――を通り名とする謎の男が頭領で、その素性はいまだ謎に包まれている。 流浪人のようにふらりと単独で現れたと思うやわずか数日のうちに近辺の盗賊たちを力でねじ伏せ、配下とし、組織化したらしい。 これが他に類を見ない残虐非道な盗賊団で、男は個々の区別ができなくなるまで切り刻み、女は犯して殺すか奴隷として売りつけるのだそうだ。 彼らが襲撃した後にはうめき声すら聞こえない。話によれば、その構成員は百をくだらないという。 生存者がいないのになぜ人数がわかるのか? 信ぴょう性に欠けるが、うわさ話とはそういうものだ。あるいは、被害状況から概算したのかもしれない。 そのような危険地帯は一刻も早く抜けるに限るのだが、隊となるとそうもいかない。隊の構成は馬車と驢馬、戦馬である。驢馬や馬車に乗れる人数は限られていて、当然乗りきれず徒歩の者も大勢いる。下女-端女の産んだ娘-や、入隊して二年に満たず、持ち馬を買えない少年兵たちだ。 途中三度の休憩で交替しながら進む隊の移動速度は、はっきり言ってかなり遅い。次の宿営地までは馬を駆れば一日で二往復はできる距離でも荷車を引く騾馬と徒歩の者はそれが限界だ。 だからこそ、作戦を遂行した後でも十分追いつけたりするのだが。 とはいえ、だ。 行程は既に下見してある。道の左
ユイナは床に残された、手つかずの碗を見た。 食べる? と持ち上げられたそれに、マテアは首を横に振る。『おなか空いてないの? 今食べないと、夜まで温かい物は食べられないわよ。市の周辺は盗賊も出て危険だから道中の休憩は最低限しか取られないし、お昼は馬車の中で食べるしかないの。 それとも、やっぱり熱いのは苦手なのかしら……』 誰に言うともなくつぶやいたユイナは、仕切り布を持ち上げて、ちょうど近くを通りかかった少女を呼びとめ、碗を手渡した。 向こうへ持っていってと指示したようだ。『できればもう少し休ませてあげたかったんだけど、レンジュが任務で帰ってこれない以上、そういうわけにもいかないわね。 荷物を整理して天幕をたたみましょう。あたしが教えてあげるわ』 ユイナはことさら声を明るく張って、そう提案した。 教える、とユイナは言ったが、実際に荷物をまとめたり天幕をたたんだりしたのは彼女で、マテアがしたのは端を押さえることと杭を抜くこと。それに、大小に分けてまとめられていた荷物の大きい方をハリが連れてきてくれた荷運び用の生き物-荷馬-の背にくくりつけることくらいだった。『小さい方は自分で持つの。もし敵に急襲されて荷を失う羽目になったとしても、最低限残しておかなくちゃいけない貴重品よ』 つまりは保存食に香辛料、携帯ナイフ、簡易ランプといった類いの物だ。 それらが入った荷袋と羊毛の円座を手に、出発を目前に騒然となった人々の問を縫うように歩き、ほろを被った馬車が並んだ場所まで案内される。 すでに同じような荷物を持った女性でいっぱいの馬車を見て、この中へ自分も入らなくちゃいけないのかと硬直したマテアだったが、ユイナはその馬車の前を通り過ぎた。 マテアが入るよう指示された馬車は、まだ誰も乗っていない、小型の馬車だった。 マテアは奥の端に置かれた水樽の影に隠れるように座る。遅れて人がぞろぞろ入ってきても、ユイナが庇うよう前に座ったため、マテアに声をかけたり、触れてこようとする者はいな
どんっと音をたてて目の前に置かれた素焼きの碗を、マテアはまじまじと見つめた。 碗の中には緑や赤や黄色をした根菜と、黒っぽい肉数切れが汁に浸っており、ほかほかと湯気が上がっている。薄まっているとはいえ、死臭のするそれが、外を歩いたときに見かけた、火にかけられていた鍋の中身と同一の物であると気付いたマテアが顔をしかめるのを見て、アネサは口をへの字に曲げた。『なんだい、その不服そうな顔は! 貧血起こして倒れたって聞いたから、精のつきそうな物を持ってきてやったんだろうがね! 言っとくけど、この粥にはあんたが今まで食ってきた物より、ずっといい物が入ってるんだよ。 あんたがどんな物を口にしてたかなんて、そりゃ知らないけどね。でも今のあんたを見りゃそれがロクでもない物だっていうのはわかるさ。 自分の姿を鏡で見たことがあるかい? 肌は真っ白だし、手足なんて棒っきれだ。そんなんで大の男の世話がこなせるわけないだろう』 じきに出発だ、さあさっさと食いな! レンジュが戻る前に出発の準備をするよ! マテアの方へさらに碗を突き出して、上から圧をかけてくる。だが人の体熱すら炎のように感じるマテアに、こんな熱い物が口に含めるはずがなかった。 たとえ冷めていたとしても食べることはできなかっただろう。碗の中身は奴隷商人の元にいたとき出された食事と同じで、生き物の苦悶と断末魔に満ちている。いくら空腹でも、マテアに口にできる代物ではない。 漂ってくる瘴気を受け入れられず、喉を詰まらせ、思わず口元をおおって顔をそむける。胃液ぐらいしか出るものはなかったが、これ以上近づけられたら本当に吐いてしまいそうだ。 しかしアネサはそんなマテアの態度を、わがままと受け止めた。 アネサのかんしゃくが落ちようとした、そのときだ。『かあさん! 一体どういうつもり!?』 仕切り布をがばりとめくり上げて、またもやユイナが飛び込んできた。 ただし今度のユイナは肩をいからせ、指先にまで怒気が満ちている。『レテルたちがあたしの方へやってきたわ。あたしの言うことをききなさいって、かあさんに指示されたって言ってね!
「どこにでも転がってる程度の情愛なら救いはある。失敗したと、膝についた土を払って、また進めばいい。 でも、そうじゃないだろ? おれは、あいつに苦しんでほしくないんだ」 よりにもよって、なんであんな厄介な女を欲しがったりしたんだ。隊にいる女の半分はあいつになにがしかの関心を持っていて、あいつの天幕に入り込むチャンスを欲しがってるっておまえも言ってたじゃないか。そういう女を選べよ。 ぶつぶつ、ぶつぶつ。 やりきれないとつぶやいていた不安が、ついにレンジュへの不満に行き着いたところでユイナはぷっと吹き出した。 ハリの丸まった背中に手をあて、身を寄せる。「馬鹿ね」 ハリの、細くて、柔らかくて、大好きな後ろ髪を指で弄ぶ。「あなた、本当は全然わかってないんでしょう、どれだけレンジュが魅力的な男性か。女たちの目に、どんなふうに映っているか。 今愛されてないのが何だというの? 心は変わるものだわ。 たとえ彼女が人でなかったとしても同じ。形のないものは、いくらでも変わることができるし、変えることもできるのよ。 大丈夫。レンジュなら、きっと彼女を射止めることができるわ」 まるで見てきたことのように言うユイナを、ハリは不思議な思いにかられて見つめた。 ユイナはハリを見上げている。そこにはたしかな愛情があった。愛されていることを確信し、その喜びに包まれる幸せに恭順している。 ハリは果実をついばむ鳥のように唇を触れあわせ、耳元に囁いた。「おまえも? あいつの天幕に、行ってみたいと思った?」 ユイナは少し身を離して考え込むそぶりをする。「そうね、興味はあったわね。 だってあなたたちったら、一人で天幕が持てるようになってからは、二人してあたしを閉め出したでしょう? それまではいつも中へ入れて遊んでくれたのに。 一体どっちがあんなに天幕内をいつもごみだらけにしていたのか、すごく知りたかったわ。 でももう知ったし、改善もできたから、いいわ」 くすくすくす。思い出し笑いをしながらふざけて肩
「どうしたの?」 はじめのうちは好きなだけさせておこうと思っていた。気にしないでいようと。 しかし気絶したルキシュを天幕に寝かしつけ、自分たちの天幕へ戻ってからもう随分経つというのに、座して以来じっと考え込んでいる姿に、ユイナの好奇心が負けた。 アバの葉を砂糖と湯で煮つめたお茶の入ったカップを手渡し、その横に座る。「随分深刻そうに考え込んでるじゃない。そんなの、てんであなたらしくないわよ」 つん、と人差し指で頬をつつく。 子供じみた、けれど親しみのこもつた仕草にハリは苦笑した。「レンジュのことだよ」「それはわかってたわ」 ハリとレンジュは隊にいる男たちの中でも特に仲がいいことで知られていた。 七年前、新兵として一緒に配属されてきた、いわば同期で、それ以来ずっとコンビを組み、生死を共にしてきているからだとみんな思っている。 入隊する前のことについて、語らない者たちは多い。兵士は入れ替わりが激しいこともあって、自然と過去は詮索しないのが暗黙のルールとなっていたからユイナもずっとそうだと思っていた。 だから本当は二人の仲はもっと昔、物心つくかつかないかのころからで、二人は幼なじみの間柄なのだということを、ユイナはハリと暮らすようになってから初めて聞かされた。 レンジュは戦場から遠い地に居を構えられるほど名と力を持った家の生まれで、ハリは彼の両親に仕える使用人の息子だった。常識で考えれば口をきくことも許されない身分差だったが、理解ある両親のもと、歳が近いということもあって友人として付き合うことを許されていた。 そして十五歳になったハリに戦地への出兵命令書が届いたとき。レンジュは自分も行くと志願したという。 貴族なのに? とユイナは疑問に思った。貴族であろうと出兵命令書は発行されるが、まず戦地に行く者はいない。兵士として不適格と判断される理由を選び、証明書を買い、承認されて免除されるのが普通だ。 不公平だがそういうものだ。世の中に公平なものなど存在しない。 だがレンジュはここにやって来た。 何の肩書きもない、ただの一兵卒と
一度は観念した、大事には至らなかったことにほっと胸をなでおろしていたマテアの肩を、ぽんとユイナの手が叩く。『ありがとう、かばってくれて。 にしても、いやなやつよねー。あたし、昔っからあいつが大嫌い。すっこいドケチだし。すぐひとを天幕に連れこみたがるくせに、一度だって食べ物はおろか服も装飾品の一つもくれたことないんだから。真冬の夜の寒さをしのぐために利用する以外であいつの閨に入りたがる女なんか、ただの一人もいやしないわ。 女たちの間じゃ隊で一番の鼻つまみ者なの、知らないのかしら? きっと知らないわね、あれじゃ』 ぶつぶつ、ぶつぶつ。巨漢の姿が見えなくなっても、ユイナは不機嫌な顔でつぶやいていて、歩き出す気配は全くない。 彼女が口にしているのはあの巨漢のことだろう。たぶん。で、表情から、悪口であろうということは察することができるけれど、何を言っているのかは全くわからない。 きっかけは自分の腕がつかまれたことだった。だからマテアとしても彼女が何を口にしているか気にならなくはなかったのだが、訊く術がないこともわかっていたので、黙しているしかなかった。 やがて、うつむいて足元ばかり見ているマテアに気付いたユイナが、顔を上げてくれるよう、あわてて両手を振った。『ごめんね。ごめんなさい。あたしばっかり愚痴ったりして。あなたにこそ、いやな思いをさせてしまったのよね。 でも気にしなくていいわ。あなたがその輪をしてる限り、誰もあなたには手を出さないから。 どの隊でもそうだけど、この隊は特に厳しいの。他人の財産に手をつけたら片手を落とされるわ。二度目で両手、三度目は追放。 あいつにそんな勇気あるもんですか。だから安心して』『そーそー。ああ見えてけっこう小心者だからね、あいつは』 自分の銅輪を差したり、手首をちょん切る動作をしたり。身振り手振りで言いたいことを伝えていたユイナに同意する声が、唐突に間近から起きた。 いつの問に近付いていたのか、革衣をまとった青年がユイナの後ろに立っており、驚く彼女の肩に親しげに手を回す。『ハリ! この役立たず亭王!』







